バカンス

hiroshifleche2006-02-21

バカンスのため友達は旅行、帰省している。
そのため、あまり人と会話することもない、いやもしかしたら自分から言葉を発する機会すら少ないように思われる。せいぜい買い物する時の挨拶程度である。

たまには寡黙になって一人になって、やるべきことに集中するのも大事なのでこの一週間は
そうしよう。

昨日、夜中床に入りながら朝倉季雄著『フランス文法集成』(白水社創業90周年記念として『フランス文法覚書』『フランス文法ノート』『フランス文法メモ』そして『フランス文法論』とその中に所収の「エッセー」の4編を集めて刊行された。)を読んでいた。

その「エッセー」の中にこのような記述があった。

文法をそこそこ終えると、いきなり文学書の読解にかかる。Guy de MAUPASSANT Anatole FRANCE Alphonse DAUDETなどが当時はよく用いられた。文法はここに至る過程として学んだので、あとは習い覚えた文法を駆使して、仏和辞典・仏々辞典と首っ引きで、まるで見知らぬ言語か、判じがたい記号でも解明するように、少しずつ意味を捉えていくのである。そのころ、理科生は数学で頭を鍛え、文科
生は語学で頭を鍛えると言われていたが、判じ物を解くようなこの操作は 、それなりにいい頭の訓練であったし、意味を捉え得たときの喜びは、数学の難問と取っ組んで、ついにこれを解きおせたときの喜びに比ぶべきものであった。(『フランス文法集成』P546より)

ふと自分のことを思い出す。

初級のフランス語を一応を終えた大学2年生の時、初めてフランス語の講読の授業を選択した。使用したテクストはラ・ロシュフーコー箴言』、パスカル『パンセ』。フランス文学不朽の名作を、フランス語もままならない一人の学生が読むことはある意味でフランス文学に対する冒涜だったかもしれない。
しかしながら、毎週、予習の際、辞書を引きながら本当に「判じがたい記号でも解明するように」フランス語を日本語に訳し、それを授業の際、間違えたところを訂正し、また復習する。このことを繰り返しているうちに、当時19歳だった僕にとってこのことが一つの喜びになった。
また、このような体験は、僕の知的好奇心をかきたて、また僕をフランス思想、文学と言う「大きな知」への冒険にいざなっただけでなく、フランスという国、フランス語圏の諸国、フランス語という言語への関心のきっかけとなった。

それから、約5年の月日が流れてようとしている。今は、当時思いもしなかったフランスでフランス思想を勉強している。もう5年も立てば、当時の喜びであった事柄がたまにめんどくさく思われたり、時にやっつけ仕事のように片付ける時もある。(←このことのほうがよっぽど冒涜である。)しかしながら、自分がやっていることに喜びや誇りをいつまでも感じながら、それをづっと続けていくことができる人間こそが大成するのではないかなと自分では思っている。

まだまだ修行の日々は続く。

映画でも見てこよう。